World Tryout
2019/11/19 連載

連載第1回:ワールドトライアウト開催に向けて

"日本の野球少年の母"と言われたスポーツライター瀬川ふみ子さんに、ワールドトライアウトの魅力・可能性についてご取材いただきました!
3回にわたり、記事をお届けしていきます。

「ワールドトライアウトって何?」

そう思っている方が多いのではないでしょうか。
そんな方々は、ぜひこの連載記事を読んでみてください!

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ワールドトライアウトって、ナンデスカ?

今年の夏の終わりごろだったでしょうか...

「今年の1130日、神宮球場で〝WorldTryout(ワールドトライアウト)〟というものをやります。ぜひ注目してください」という話を聞きました。

「〝WorldTryout(ワールドトライアウト)〟? それって...なんですか?」というのが第一声。

〝トライアウト〟と聞いて、真っ先に思い浮かぶものは、毎年、所属球団から戦力外通告を受けたプロ野球選手たちが挑む、あの、〝12球団合同トライアウト〟。

「NPBが主催している、あの〝12球団合同トライアウト〟とは別にやるんですか?」「それとは何が違うんですか?」と、それを主催するワールドトライアウト社の田中聡さんに聞いてみると...

こういう答えが返ってきました。

「12球団トライアウトは、NPBを戦力外になった選手が、NPBの違う球団に入るためにやっているものですよね。この〝WorldTryout(ワールドトライアウト)〟は、NPBを戦力外になった選手が、メジャーに挑戦するためのトライアウト。もう一つ、NPBで野球をしたい全世界の選手がNPBに挑戦するためのトライアウト。NPBであったり、メジャーだったり、野球をやる場所を求める選手たちが一堂に会して、日米のスカウトに見てもらうというものなんですよ」と。

 田中さん曰く、「NPBをクビになったということは、戦力にはならないと判断されてそうなったわけですから、NPBに戻れる可能性はほぼないのです。それでも野球をやりたいのなら、野球をやる場所を求めてアメリカの野球に挑戦したらいいんです。メジャーは難しいにしても、トリプルAレベルでしたら十分可能性はあります。NPBのレベルは、メジャーとトリプルAの間...〝4A〟の位置。トリプルAに挑戦して、そこで活躍ができたなら、またNPBの球団から声がかかって、再び日本のプロ野球に戻ってこられる可能性だってありますからね」

 なるほど!

田中さんは、「僕は〝プロ野球選手になる方法〟を知っているので、そうなれる舞台を提供したいんです。まだまだ野球ができる力がある選手たちに、野球をする場を提供するべく、そこにチャレンジするための舞台を作ってあげたいと思って、〝ワールドトライアウト〟をやろうと思ったんです」と続けました。

 そう話す、田中さんの目力がすごいんです! そして、熱いです!

この、WorldTryout(ワールドトライアウト)が具体的にどういうもので、1130日、神宮球場でどういうことをするのか、ということは、後日、詳しく書くこととし、その前に、このWorldTryout(ワールドトライアウト)を企画し、実現に向けて準備を重ねる田中さんがどんな人物なのかということに、私は興味を持ちました。

どんな経歴で、どんな人生を歩んできて、どうしてこのWorldTryout(ワールドトライアウト)をやろうというところに行きついたのか? なぜ、「プロ野球選手になる方法がわかる」と言い切れるのか、知りたいじゃないですか!

 ということで、田中さんに話しを聞いていくうち... 田中さん自身が、トライをし続ける人生を送ってきた人であり、トライし続けた末に、日・米、両方でプロ野球選手になった人物ということがわかりました。

そして、見えてきたんです。

WorldTryout(ワールドトライアウト)を開催する意味、そして、必要性が! 


WorldTryoutを企画する田中さんって、、、ナニモノ?

1977年、滋賀県で4人兄弟の末っ子として生まれた田中さんは、小さいころから体を動かすことが好きで、スキー、バスケットボール、空手、アイスホッケーなどいろんな競技に挑戦。そんな中、小学4年生のとき、4つ上の兄の影響もあり野球を始めたそうです。

「野球チームに入ったものの、肩が良かったこともあって、小学4年生から6年生までの3年間、キャッチャーしかやらせてもらえなくてね... 全然面白くないし、野球も好きじゃなかったんですよ」とい田中さんですが、「ふだん、あまりかまってもらえない親に注目されたいという思いもありましたし、目立ちたいし(笑)、すごい負けず嫌いでもあったから、同級生にはもちろん、先輩にも、兄にも負けたくない。そんな思いもあって、小学生の時点で、『将来、絶対プロ野球選手になる』と、〝決めた〟んです」

そう決めてからの発想が、とにかくすごい。

プロ野球選手になるためには、ドラフトで指名されないといけない。スカウトに注目されるためには、甲子園に出て活躍した方がいい。それならば、甲子園に出場できる可能性が高い高校に進学しよう。そのためには、中学時代から注目されないと強豪高校からも誘われない。中学から強いチームに入って、高校のスカウトの目に留まるように活躍しよう!

そういう考えに至り、硬式野球のボーイズリーグに入ることを自ら決めたそう。

田中少年の、人生初めての〝トライ〟です。

 中学校ではバスケットボール部に所属し、平日はバスケの練習を通じて体作り。そして日曜は、京都市で活動する京都ヴィクトリーズ(現・京都洛南ボーイズ)へ。地元のチームではなく、京都のチームを選んだのも、野球どころ・大阪に近く、注目度が高いだろうという発想。同チームの梅田邦三監督が、もとプロ野球選手(巨人~西鉄~中日)だったことも決め手の一つであったと言います。

滋賀から京都まで遠いこともあって、練習に行くのは日曜日だけでしたが、それでも試合に出してくれた梅田監督。その期待に応え、しっかり試合で結果を出す田中選手。

中学3年になったとき、田中選手の狙い通り、香川の強豪・尽誠学園からの話しが舞い込み、人生2回目の〝トライ〟することを決めたそうです。

 「自宅から比較的近い敦賀気比(福井県)からも声はかかっていたのですが、『地元にいたら井の中の蛙になってしまう。外に出ていろんなものを見ないと』という思いもあり、誘っていただいた高校の中で一番遠い尽誠学園を選んだんです。尽誠学園は、その年も甲子園に出場し、ベスト4にも入った高校。3年間で2~3回は甲子園にいけるんじゃないかという思いもありました」

尽誠学園の大河賢二郎監督(当時)が、上から押し付けるような練習ではなく、選手たち自身に考えて練習をさせる指導者だったことも、田中少年が「いいね!」と思えたところ。また、社会人野球(鐘淵化学)経験がある大河監督は、大学野球の世界にも人脈があり、高卒でプロにいけなくとも、〝プロに行きやすい大学〟への道も開けるだろう...ということも決め手の一つ。

中学生3年生にして、そこまで考えて高校を決めたというのだから、驚きでした。

そうして始まった高校野球。「何がなんでも甲子園」と自分にプレッシャーをかけまくって練習に励んだ田中選手は、1年秋の四国大会、準決勝の高知商戦で決勝タイムリーを打つなどの活躍。翌春の選抜甲子園切符をつかみ、2年春、5番・ファースト兼サードとして選抜甲子園に出場しました。甲子園で勝つことはできませんでしたが、プロ野球選手になるための最初の難関をクリアしたのです。

高卒で即プロにいく力はなかったとのことですが、「プロ野球選手を一番多く輩出している大学に行くことが、自分のプロへの道につながると思って、調べたら、法政大学だったんです。だから、『法政に行く!』と自分で決めました(笑)」

それまで尽誠学園から東京六大学のチームに進んだ選手は誰一人いなかったそうですが、そこでも田中選手は〝トライ〟します。

練習会に参加し、見事、合格!

「やはり、大学進学にあたって、〝甲子園出場〟の実績は大きかったです。大河監督が、法政大の山中正竹監督さんと社会人つながりがあって、練習会に行かせてもらえたことも大きかったです」と田中さん。3年前、自ら熟考して、尽誠学園に〝トライ〟したことで、一番入りたい大学の道が開けたのです。

そんな法政大は、毎年、複数の選手がプロ入りするだけあって、レベルの高さはハンパなかった。「でも、そんな中、レギュラーになって活躍すれば自分もプロ野球選手になれると思っていた」という田中さんは、一時期、4番を打つところまでいきましたが、レギュラーをつかむことはできず...。

大学4年秋、ドラフトで指名されることはありませでした。

でも、そこから田中さんのさらなる挑戦が始まります。

「社会人野球のチームからはお声をかけていただいていたんですが、プロ野球選手になることしか考えていなかったのでお断りさせていただき、日本のプロ野球がダメならアメリカでプロ契約をすればいいじゃないか、とアメリカに行くことにしたんです」

当時、野茂英雄投手がドジャースで活躍し出した頃。「僕もアメリカできっとできる」と、卒業式前の大学4年の2月に渡米。アメリカの独立リーグ、バレー・ヴァイパーズのトライアウトを受けたのです。

大学時代に神宮球場で1本しかホームランを打っていなかった田中さんですが、なんと、そこでホームラン! トライアウト後、GMに呼ばれて行ってみると、地面に〝$1000〟の文字。$600700の契約が通常である中、$1,000という破格の金額での契約。ついに、〝プロ野球選手〟になったのです。

毎日、あっちへ行き、こっちへ行き、移動しては試合。ハードながらも楽しくやっていたが、アメリカ生活にも慣れてきたころの6月、クビを宣告されてしまいます。

他の球団へのチャレンジも試みましたが、時期的なこともあって契約には至らず...

帰国―――。

でも、まだまだ田中さんはまったくあきらめていません。

中学野球、高校野球、大学野球、アメリカ野球、と、いずれも自分自身で自分が野球をするチームを探しては挑戦し続けてきた田中さんは、ここで、人生5回目の〝トライ〟に挑みます。

日本で練習を続け、その秋、NPBの球団のテストを受けたのです。最初にダイエーを受けると、一次テスト合格。続いて巨人、広島。テストを行っていないヤクルトは、練習会に参加してみてもらったそうです。5球団目で日ハムを受けると、その日のうちに「ドラフトにかけるから」と事実上の合格通知をもらったのです。

大学を卒業して7カ月目の23歳秋、田中さんは、日本ハムファイターズからドラフト7位で指名を受け、念願のNPBのプロ野球選手になったのです!

なりたくてなりたくて本当になれたプロ野球選手生活――。それは、すごく楽しかったと言います。一軍にはあがれませんでしたが、ファームでの日々。「田中賢介、飯山裕志、森本稀哲、實松一成、高橋信二、田口昌憲...岩本勉さんも上(一軍)にいったり下(二軍)に来たりして、鎌ヶ谷は賑やかでしたよ。そういうメンバーと野球がやれたあのころは、今、振り返っても、野球人生で一番楽しかったときですね」

一年目、ファームで80試合に出場し、打率・238。ホームラン8本、31打点。まずまずの成績を残し、翌二年目、春のキャンプは一軍スタート。でも、紅白戦で大きなエラーをしたことで二軍降格。ファームで、コーチと衝突して謹慎。復帰戦でいきなりホームランを打つなど巻き返しをみせましたが、シーズン終了後、〝チーム事情〟という理由で戦力外通告をされました。

25歳になり、ようやく野球の面白さを感じ、自分の力もついてきていると実感していた田中選手は、次の挑戦に踏み出します。人生6回目の〝トライ〟は、阪神のテスト。見事合格し、NPBで2球団目、阪神タイガースの選手になりました。

でも、5月、ファームの試合前ノックで腰を痛め、夏場まで動けず...。

シーズンの終わりに再び戦力外通告―――。

26歳で現役引退となりました。

「アメリカ、日本のプロで野球をやって、技術的にはかなりあがっていて、バッティングもつかんだ感覚はあったので、もう一回、アメリカに挑戦すればよかったんですけどね... さすがに心が折れてしまいまして...」

でも、トライをし続けてきた田中さんだからこそ、プロ野球選手になれた。わずか3年ではありますが、プロ野球選手として、プレーすることができた。そして、その世界で様々なことに気づき、知ることができたと言います。

田中さんは、その後も一人の社会人としてのトライをし続けています。野球スクールを立ち上げたり、バッティングセンターをオープンさせたり、専門学校の講師をしたり。2年前には、英語でスポーツを指導するインターナショナルスクールを創設したり、日本初の英語で指導するリトルリーグ(広尾リトル)をも立ち上げています。

いろんなことに関わっていく中で、常に感じていたこと...それが、戦力外になったプロ野球選手が次に野球をやる場を求めたときのアピールの場の少なさ。「12球団トライアウトの、たった1イニング、たった3打席ではアピールしきれない、ならば、もっとしっかりアピールできる〝トライアウト〟の場を設けて、次へのチャンスを広げてあげたい」という田中さんの思いから、〝WorldTryout(ワールドトライアウト)〟をやろうというところに至ったのだ。

「僕は、トライアウトに挑戦してきたからこそ、今の自分があります。僕の人生そのものが〝トライアウト〟。今の選手たちにも、どんどん自分からトライしてもらいたいんですが、その方法がわからない、どうしたらいいかわからないという人たちもいると思うので、まずは、というところでのこの企画です。まだまだ野球を続けたい戦力外になった選手たち、また、大学や社会人、独立リーグなどからプロ野球選手になりたい選手たち、多くの選手たちにトライしてほしいですね!」

その、トライアウトの内容がまた面白い。とても画期的。いろんなビックリが出てきますが、それがまた田中さんならではの発想。それについては、また次回、書いてみようと思います。

<取材・執筆:瀬川ふみ子>

■瀬川ふみ子
福島県出身のスポーツライター。
学生時代からシニアリーグ、ボーイズリーグなどの取材を始め、約30年に渡り、中学硬式野球中心に、少年野球、高校野球、大学野球、社会人野球、独立リーグ、そしてプロ野球の選手や指導者を取材して執筆。中学時代に出会った選手を、その後も追いかけ、何百人...何千人もの選手の成長を見守るとともに、多くの選手の〝野球人生引退〟までを見届けている。
著書に「松坂大輔 白球の軌跡」、共著に「甲子園だけが高校野球ではない」「最後のプレイボール」「ここで負けてしまってごめん」など。
かつては、野球少年たちの〝姉〟的存在であり、今は、〝日本の野球少年の母〟と言われ、プロ野球界にも親交の深い選手が多い。
一男一女の母でもあり、息子は甲子園球児、娘も女子マネージャーとして甲子園出場している。
ラジオ出演、講演、野球イベントのMCなども務める。